ルース・ミリカン『意味と目的の世界 ―生物学の哲学から』
英語pdfで読んでる
戸田山『哲学入門』で使われている例 (異なる感覚様相が別の行為を導いて統合できない生き物(原文ではムルムルではなくヘビになっているけどほぼ同じ)、扉から出ようとする猫のサム)もこの本に出てくる
第2部で自然記号と志向的記号
第3部は公的言語、第4部は内的(心的)表象
序
第Ⅰ部 目的とその食い違い
第1章 人間の目的とその食い違い
サブパーソナルな目的と、パーソナルな目的の区別 (デネット) は確固たる区別ではない
第2章 ミームの目的とその食い違い
ミームがその主人の目的に奉仕する以上のものになるのは、コミュニケーションの場合
スーザン・ブラックモア(*1)が批判されてる
ミーム論は衰退しているらしいけどそのへんはどうなるんだろう
言語の単語などはある程度忠実に複製されていると言えそうだけど
第Ⅱ部 自然的記号と志向的記号
第3章 局地的自然記号と情報
ドレツキの自然記号(自然的情報)との違い
局地的反復記号
ドレツキの場合、aがbに情報を伝えるためには、条件付き確率 P(b|a) = 1 ということが自然法則によって保証されていなければならないが、個体についての自然法則というのはないため、個体についての事態を表す自然記号というのはないということになってしまう
第4章 自然的記号における生産性と埋めこみ
自然的記号において、ある事態が別の事態について情報を伝える
事態というのは、真理メーカーと似たもの
Ruth Garrett Millikan's biosemantics program has implications for the metaphysics of states of affairs. Millikan's theory leaves no role for possible but non-actual states of affairs.
煙がその前の時点における火を表す場合、煙の時刻が火の時刻を表しているので、時刻が時刻を表すようになっている
t軸を使ったグラフで、グラフの空間軸 x で時間軸 t を表しているのと同じように、時間軸 t で時間軸 t - a を表すというような扱いになっているっぽい
// 画像では記号の空間位置が対象の空間位置を表す。映像では記号の時刻が対象の時刻を表す
時計の意味論的写像関数は?
足跡の大きさ→ウズラの大きさ
〈ガスメーターの目盛り, 車, 時刻〉→〈ガスの量, 車, 時刻〉
〈重力方向の反対の線からのからの角度〉→〈巣を中心に太陽への線からの角度〉
時刻が時刻自体を表す、車は車自体を表すというように記号の要素が自分自身を表すことを reflexive という
(少し前の時刻を指す場合もreflexiveと言うのか?)
ayu-mushi.icon fを意味論的写像関数としたときに、
$ \pi_1 (f (x, y)) = \pi_1 (x,y) ($ \pi_1は第一成分の射影)
つまり
$ \pi_1 \circ f = \pi_1
あるいは一般に
$ \pi_i \circ f = \pi_i
となるものを、reflexiveという?
ドネランによる、確定記述の指示的用法と帰属的用法の区別 (ライカンの教科書に載ってたやつだ)
xがyの自然記号で、yがzの自然記号だと、xはzの自然記号になる (自然記号の自然記号)
xからzへの意味論的写像関数は、xからyへの意味論的写像関数とyからzへの意味論的写像関数の合成
光→網膜→視神経の興奮
route
意味論的写像関数が定数関数になるようなケースはありえるか
「xの自然記号の自然記号」は「xの自然記号」でもある モナドじゃん(?)
Nicholas Shea "Millikan’s Isomorphism Requirement"
第5章 目的意味論
原文ではteleosemantic theories と複数形になっている
しかし、実は218ページより前の207ページですでに、自然的記号について「自然的記号が何かを表すのには条件付き確率が1であるという条件もいらない」という緩和がなされている(ミリカンの主張として出てきているが、戸田山さんがいちゃもんをつけている様子もないので、戸田山さん自身がこの緩和を受け入れていると言っていいだろう)。さて、そうすると、実は自然的記号は一般に間違い可能性を持つ。記号の条件付き確率が1ではないということは、記号で表される対象が成り立っていないのに記号が存在する場合があるということに他ならない。もし、間違い可能性が志向的記号であることの十分条件なら(p.218の引用だと十分条件と考えているように見える)、雨が降って地面がぬれるのだって志向的記号である(雨が降っても地面がぬれないこともあるから)。自然的記号一般が間違い可能性を持つ以上、間違い可能性が普通の自然的記号と志向的記号を区別する重要なポイントだとは考えにくい。
この点についてはミリカンを読んでも回答が得られることはなかった。
条件を緩めたのに、自然記号は誤り得ないのだとみなしている。(日本語訳, p.84)
試行語と達成語
さらに挿話的概念にも複数の種類があり、それをきちんと区別しなければ心についての神話に陥ってしまう。ここでは「達成動詞」と「仕事動詞」の区別が問題にされる。
「達成動詞」などと呼ばれるもの(完了性telicityを持った述語)について、最近の分析。
ブレンターノは志向性を、何かについてであることと、誤りうること(あるいは現実には存在しないものについて態度を取れること)の2つで特徴づけたが、その2つは別のことである、というのがミリカンの主張
(ブランダムは、後者の方が基本であり、前者はそれによって説明できるとしていた気がする。)
(ミリカンは、前者は表象対象、後者は表象の命題内容、という区別とはまた違うものを意図している)
目的意味論は後者のみ説明する
// 成功の場合をより基本的な概念とする点で、知覚の哲学におけるM.G.F.Martin, William Fishの消極的選言主義 (「幻覚は真正の知覚と主観的に区別できないもの」というような真正の知覚に依存したものでない独立の特徴づけを与えることはできないという考え) や、知識ファースト認識論と似ている
The most striking difference between knowledge and belief is that knowledge entails truth while belief does not. There is false belief but no false knowledge. Some people believe that Africa is a single country, but since it is false that it is a single country, they do not know that it is a single country. They just believe falsely that they know that Africa is a single country. In this sense, all knowledge but not all belief is successful. Thus knowledge first epistemology gives explanatory priority to success. This does not mean that belief first epistemology gives priority to failure. Rather, it gives explanatory priority to conditions that are neutral between success and failure: some beliefs constitute knowledge, others are false.
Most epistemologists agree that while knowing entails believing truly, believing truly does not entail knowing. Someone does not know something he believes truly on the say-so of his guru, who invents things to tell him at random without regard to their truth or falsity. Although merely believing truly involves a sort of success—getting the answer right—it also involves, unlike knowing, a sort of cognitive malfunction. Thus knowledge is a more full-blooded success condition than true belief. Knowledge first epistemology understands cases of cognitive malfunctioning in terms of their deviation from cases of cognitive functioning, as opposed to treating the two kinds of case more symmetrically.
…
Knowledge first epistemology has important similarities to disjunctivist accounts of perception, which are sophisticated modern versions of “naive realism.” Disjunctivists often explain failure (illusion, hallucination) in terms of its relation to success (genuine perception), rather than treating the two cases on a par. Typically, they also hold that there is a mental state (in an unstretched sense) that one is in when and only when one is genuinely perceiving: one takes in the world. Consequently, they deny that one’s mental state can be exactly the same in cases of failure as in cases of success, with the only difference consisting in external causal relations inessential to that state.
ただし、知識ファーストの場合は、信念を知識によって分析するとは限らない (知識も信念も同等に基本的と考えるオプションもある) っぽい
選言主義認識論、選言主義意味論
目的意味論における、自然記号と志向的記号の関係には可能性として3パターン考えられる
ミリカンの枠組みだと、命題という存在者は要らなくて、事態の存在論だけでいいっぽい?
(否定形の扱い?)
命題や内容という存在者も、センスデータや観念、マイノング的対象と同じような混乱に基づいて立てられたものでしかないのか
幻覚論法、錯覚論法
// フィクショナルキャラクターを表象することは表象することに失敗することなのか?
「永遠の命の湧き出る泉を求めた人は、永遠の命の湧き出る泉の観念を追い求めたのではない。なぜなら、彼はすでに観念を持っていたからである」みたいな話どっかにあったっけ
アームストロングやスタークに例示される差し障りのない言い方はブレンターノ(1874)が「志向的対象」と呼んだものを語る際には必要不可欠である。言い伝えによるとポンセ・デ・レオンは若さの泉—存在しないものを探していた。その言い伝えにはなんらの事実的な証拠も知られていないので、もう少し有名でないが歴史的に申し分ない事例、ウォルター・ローリー卿が南アメリカでエルドラド、黄金の街を探して何度か遠征を行なった事例を考えてみよう。エルドラドについて学問的な真実に満ちていて、読者にそれが存在しないと知らせないような本を書くことができるかもしれない。その本は実在物について、すなわち実在する人、実在する脳(もしお好みなら心)、実在する旅、実在する本や会話、実在する地図、実在する詐欺師やぺてん師、実在する落胆についてのものになるだろう。そしてローリーが実際にエルドラドの観念を彼の心に抱いていたこと(大雑把にはそう言えるだろう)が真実である一方で、その精神状態は彼の探求の対象ではない。彼はすでにそれを持っていた!彼は自分の心の中にある観念を追い求めていたわけではない。彼は街を探していたのだ。そしてエルドラドは何でできていたのか?大理石?金?煉瓦?それ、すなわち志向的対象は何物でもできていない。架空の対象は多くの性質、本当の性質を持っていると正しく言うことができる。サンタの外套は赤く、彼の髭は白く、そして彼のお腹は大きく丸い(赤い外套を除いて私もその性質を持っている)。エルドラドはローリーが持っていると信じていたどんな性質も持っていた。それは存在しなかったが、ローリーはそれを見つけるためい彼の人生の大半を費やす用意があるほどにそれが存在すると信じていた。この存在しない(志向的に非存在の)エルドラドはウォルター・ローリー卿のもっとも重要な信念や願望のうちいくつかの志向的対象であった。
経験の内在的質 ギルバート・ハーマン…
ユニコーンの絵の話とか不老の泉を探し求める話とか。
ayu-mushi.icon飛蚊症の飛蚊、ユニコーン、黄金の山、惑星ヴァルカン
第6章 志向性
ドレツキの目的意味論とミリカンの目的意味論の違い
ドレツキは自然記号を産出すること自体が、記号の生産者の機能だと言っている
ミリカンによると、自然記号を産出するということそれ自体のおかげで記号の生産者が自然選択で生き残ってきたわけではないため、そうはならない
記号の生産者が自然記号を産出するということ自体は適応ではなく、副産物
ミリカンの目的意味論に類似する既存の理論
情報意味論
機能主義
論理哲学論考の像理論 (意味論的写像関数の部分)
「合理性は志向性の母(デネット)」に、ミリカンは反対する
志向的記号の説明において、推論や合理性への言及を行わなかった
ayu-mushi.icon自然淘汰による適応が合理性の役割を果たしている、というわけではないのかな
In (Millikan 1984) chapter 6, I said that the content of a descriptive or "indicative" representation was determined by what its consumer needs the representation to map onto if it is to perform all its functions in accordance with a "most proximate Normal explanation." "Normal explanations" are what I have been calling "normal mechanisms" here. Karen Neander (1995) has objected that among normal conditions that must be mentioned, say, for the male hoverfly's female-detecting systems to carry out all of their functions are that the female is fertile and that she won't be eaten before she reproduces.
しかし,ここで一つの問題が生じる.蜜蜂のダンスの例に立ち戻ってみよう.3 節では,ダンスに接した別の個体がなす行動の機能が果たされるため の正常な条件,すなわち,ダンスの角度と尻振りの長さに対応する特定の方 向と距離に餌があるということである,と述べた.さて,一つの問題というのは,食料を巣に持って帰ってくるという機能が果たされるための正常な条 件が,特定の位置に餌があるということだけだという保証はないのではない かということである.餌を持ち帰ることができるために環境が満たすべき条 件は他にもある.例えば,強風が吹いていないこと,天敵がいないこと,周 辺の地域にDDTが散布されていないこと,などなど.
For descriptive signs, that the sign maps in this way is a condition that is required for the consumer to perform its tasks, whatever they are, by the mechanisms normal for it. The content of the descriptive sign is not determined by the tasks its consumer performs. It is determined by what the sign needs to correspond to if the consumer is to perform its tasks in its normal way. The producer's job is merely to make a sign that corresponds in the right way to a world affair. If it does this in its normal way, by its normal mechanisms, the intentional sign it makes will also be a local natural sign. For directive signs, that the sign maps in the right way will be a result of the consumer's activity. The consumer's job is to cause the sign to map in this way by producing or causing a corresponding affair. It's job is to obey the producer's orders. But equally, it is the job of the producer to give orders that will benefit both it and the consumer. Only in that way can such a cooperative pair be selected for. Similarly, in the case of a descriptive representation, the consumer's job must be such as to use the representation in a way that will benefit both itself and the producer. Whatever more concrete jobs that consumer has, it must have this effect (or have had this effect) often enough to ensure selection of the cooperative pair
ミームの場合の消費者、生産者とは
ゼウスという語を含む文が複製されてきたのはゼウスという語を含む文を聞いた人が、ゼウスの状態によって成功の如何が決まる振る舞いをしたからではない気がする
これ回答になってるのか? >ハナアブ
志向的記号の議論なのに、自然記号の概念で回答している
純粋に消費者だけではなく、生産者側を内容に寄与すると考えることで、ハナアブの雄が持つ表象が「妊娠可能な、これから食べられることのないメス」という意味になるのを防ぐことができる?
ハナアブの雄が持つ表象が「ハナアブのメス」ではなく、「妊娠可能な、これから食べられることのないハナアブのメス」という意味にならないことを支持する議論は、ハナアブのオスが妊娠可能かを区別できないことを理由にしているが、もし区別できないなら意味内容に含まないとすると、カエルがハエとBB弾を区別できないならカエルが持つ表象は「ハエまたはBB弾」という意味になるという選言問題を呼び戻すことにならないか
第7章 内包性
内包的な語りはすべて、偽装された表象についての語りなのだと言っている (クワインと同じ立場?)
因果関係はどうなのというツッコミが思いつくけど、因果関係についての語りはほんとうは内包的ではないと言っている
可能世界についての語りも偽装された表象についての語り
表象以外の機能についての語りも表面上は内包的な気がする
局地的反復記号という概念に内包性はないか
そもそも事態の存在論というのは内包性を持ち込まないのだろうか
私が腎臓を持つという事態と、私が肝臓を持つという事態は同じ事態?
第Ⅲ部 外的な志向的記号
第8章 言語記号は自然的記号から出現する
自然記号→言語記号
グライス的含意、比喩→定着した含意、枯れた比喩
第9章 言語を介した直接知覚
視神経のパターンは網膜刺激の自然記号だが、志向的記号ではない
網膜についての事実自体は、視神経のパターンをその後利用する機構の生存に影響しない
人は外的な物を直接見るのであり、網膜刺激を見るわけではない
直接知覚・間接知覚の伝統的な概念はミスリーディング
知覚において記号を別の記号に翻訳するのは推論とは違う
なぜなら 1、大前提がない。2、翻訳前の記号は信念ではない。
表象が原因で新しい表象が生まれるからと言ってそれが全て推論ということになるわけではない
信念というのは表象の中でも特別に汎用のもの
related?: 所与の神話
よって、線や輪郭の表象から、より高次のパターンの表象が得られることは、推論ではなく、間接的な知覚ではない。
言われたとおりのことを信じるのは、典型的な状況では、直接知覚の一種であり、推論ではない
// 知識は 推論か、直接知覚かのどちらかであるという仮定?
// たとえば記憶とかも広い意味で知覚と解されているんだよね
幼い子供は語の概念を持たず、推論だとすると推論の前提となる信念を形成できない (じっさいには信念ではない表象として持っているとみなす)
ミリカンによると、鏡像認知が自己の認識と関係するというのは間違い
自分の体を普通の仕方で見ることが自己の認識に関わる以上に、鏡を通して見ることが自己の認識に関わるわけではない
そうではなく、鏡を自然記号として情報を得るやり方がわかるかという問題
第10章 慣習的記号の領域を追跡する
言語を通して世界を見るときに、話者の心や意図についての表象が介在されるわけでは通常ない
自然記号の自然記号を考えるとき、前者の自然記号と後者の自然記号とで領域が異なる場合の合成?
子供は心についての概念を持つ前から、言語を使うことができる
意図を読むのではなく、自然記号の領域を追跡することで、曖昧性の解決などが行われる
共同注視は自然記号の領域の追跡を行っている
他人の言語を理解するために他人の心の中身に関わる必要はない
第11章 意味論と語用論の区別のさまざま
意味論と語用論の区別の立てられ方には色々ある
1. 真理条件と力の区別
2. 文脈依存と文脈独立
3.言語の規約的側面と、非規約的に達成されるコミュニケーションの区別
志向的記号には、意味論的写像関数と言語機能という2つの"function"がある
叙述形と命令形の違いは言語機能の違い
これは(1)に対応
(2)と(3)は同じではない
規約的な仕方で文脈に依存することもある
規約的というのは、ある話者と聴者の協調的目的を達成し、それが以前に成功したという理由で再生産されたということを言う
以前の用例がなければ、使われないか、理解しにくいもの
ayu-mushi.iconRT言及という規約
空リプ
フォロイーがかぶっていれば領域を追跡できる
トレンド、みんなが話していること
第12章 直示詞、指標詞、およびもう少し記述について
第4章で導入されたreflexiveな記号
言語の、音素、形態素、構文以外の環境の要素も広い慣習的記号の一部をなしている
それら全ての環境の要素を含めた事態を広い言語記号という
ayu-mushiが2022年12月12日に「私はayu-mushiです」と発言するとき、ayu-mushi、ayu-mushiの仕草、2022年12月12日という要素も広い言語記号に含まれる
// それらもどの事態を表すかに影響する
黒板に四角を書き、四角に矢印を指し示して
□ ← これは閉じた平面図形だ
と書いたら、四角形自体が、記号となる事態の一部である。
その記号としての意味はreflexiveに自分自身を表すこと
// 演劇では、演者がキャラクターを表す。演者が本人を表す (本人役) こともある
reflexiveとindexicalは違う
indexicalは単語化、文法化されたもの (文法位置の単語化)
直示詞と指標詞の違いは、指標詞は完全に規約的な仕方で働く
第Ⅳ部 内的な志向的記号
第13章 内的なオシツオサレツ
ギブソンは、アフォーダンスの知覚は表象ではないと考えていた
なぜなら、ギブソンは表象という言葉を、計算や推論の対象になるものとして考えていたから
しかし、ミリカンの意味ではギブソンのアフォーダンス知覚は志向的表象になる
pull: 指令的
push: 記述的
バークリーの鋭角でも直角でも鈍角でもない抽象化された三角形
オシツオサレツ表象の記述的側面が表象するのは、消費者が正常に働くためにどのような環境要素が成り立っていなければならないかということ
肌の温度 (の急速な変化) の方が肌に当たっている物体の温度よりも生命体の生存にとって重要であるため、感覚は肌の表面温度を伝えるようになっている
空間的距離の離れたものの表象
時間的距離の離れたものの表象
雨に備える、捕食者に備える
B-アフォーダンス:1つのアフォーダンス知覚→それによる行動だけで目的が達成できる状況
ND-アフォーダンス: 避け行動が1つのアフォーダンス知覚だけで生まれる状況
//(すごく熱い水に手をツッコむと即座に手を引っ込めるので、ND-アフォーダンス)
学習が最終的にB-アフォーダンスの状況に入る可能性をたかめ、ND-アフォーダンスの状況に入る可能性を低めるとようにすると、アフォーダンス知覚の連鎖が生まれる
(志向的記号の定義は進化ではなく学習でも良い)
ayu-mushi.icon 目的意味論では「特定のアフォーダンス連鎖を経てある結果につながること」が指令的内容になる?
ミリカンはB-アフォーダンスに入ることは良いことのように言っているけど、蚊が居たら叩くというアフォーダンスがあったら、それはB-アフォーダンスということになるのでは
かゆいから掻きむしるというアフォーダンス
自分の、目的位置に行ってからカバンを開くのでそこに必要なものが入ってるか分からない (いま道でカバンを開ければいいだろ) というのはオシツオサレツ生物っぽい
オシツオサレツ生物は (条件づけによる学習の結果として) 手順を記憶できても、事実の記憶は持たない
現在の知覚だけをする
強化学習AIってオシツオサレツ生物のレベルを越えていないのかな
これは刺激ではなく、状態に対して反応できるから、単純なオシツオサレツ生物を超えてそう? (後参照)
オシツオサレツ生物は、現在目的を達成しているかを知ることができるような形で目的の表象をしていない
記述面と指令面が別の言語で書かれているとみなすことができる
そのため目的が達成できないとわかるはずのときでも、行動をしてしまう
ayu-mushi.icon目的意味論だと、痛みや空腹などにも表象内容があることになるが、私達がそれらについて普通は知覚と同じような表象内容を持ったものとして扱わない気がする
知覚は外界についての信念を正当化するが、痛みの感覚は痛み以外についての信念を正当化する役割を担っていないように思える (それは痛みが指令的だからかもしれないけれど)
甘いものがほしいと思うことと、栄養があるものを取ろうと思うことは違うが、目的意味論的には区別されない?
性欲は子供がほしいという欲求か
第14章 対象の表象を分離する
ocular: 目による
背側経路(dorsal)と腹側経路(ventral)
腹側は物体の同定、背側は物体に対する身体の運動
左右逆さ眼鏡をつけると、慣れると運動は問題なくできるようになり(背側)、完全に普通になったかのように見えるが、車のナンバープレートは逆さのままに見える(腹側)
背側と腹側の分離は、ハムスターのような哺乳類にも見られる
背側経路では、自己はimplicitに行為主体としてのみ扱われ、自己と対象の関係を行為可能性の観点から表象する
// 背側だけの情報だと、迷路の大きさを変えると解けなくなる?
一般的に物体を操作するスキル、物体の個体や種類を判別する能力
両方組み合わせて、物体毎に違う操作を行う
// 何かトイワールド上で具体的なタスクを出して説明するとかしてもらったほうが分かりやすいような…
// モデル
動物は、動きを猿真似するより、中間段階の結果の系列を見て他者からの学びを行う (これは客観的表象?)
猫がドアノブを回してドアを開けるとき、人間は1つの手を使っていても、猫は2つの手を使う(「ドアノブが回る」という結果を得るためには、手を2つ使わないといけないということが分かっている)
動作自体の猿真似をできるのは人間、イルカのみ
感覚様相毎に違う用途にしか使えないヘビ
特定の用途に使うのではない表象は得られたが、これはいかなる用途とも切り離された表象とは別。
複数の用途がある場合、志向的表象の内容の定義に改定の必要が生じたりしないのか
第15章 空間と時間
認識的行為は、物体の今見えている表面でない、物体の全体の形を表象する上で重要 (現象学における、物体の背後の議論っぽい)
認識的行為は、大量の感覚刺激の中で 自分の動きによって依存しない invariant な成分を抽出するのに役立つ
オシツオサレツ生物が行っているのは procedural learning でしかない
// 好奇心は認識的行為を生み出すと言えそう?
@gdb: An agent which learned to play Mario without rewards. Instead, it was incentivized to avoid "boredom" (that is, getting into states where it can predict what will happen next). Discovered warp levels, how to defeat bosses, etc. More details: https://t.co/lGw3rZUbv3 多くの動物は、縄張りの中なら、どこに連れ去られても巣に最短距離で戻れることから、頭の中に地図を持っていると考えられる
一般化された、切り離されたアフォーダンス
道、障害物
過去の出来事の表象には使いみちがないので動物は単線的な歴史を表象しない (検証主義意味論が過去についての言明に問題を抱えるのと似ている)
動物が表象するのは、どの出来事のあとにどの出来事が起こりやすいかという条件付き確率だろう
(B系列?)
未来の表象には使いみちがあるので、未来を表象できるのは不思議ではない
動物の古典的条件づけと言われていたものは、刺激と反応のパターンが植え付けられたというよりかは、ある出来事についで別の出来事が起こるということを表象しているものと見なせる
オペランド条件づけ (instrumental conditioning) についても、報酬を受ける前にしていたどんな行動も強化されるというより、因果関係や時間的随伴関係の表象を行っているとみなしたほうがいい
第6章では他の動物とヒトとの比較が行われる。チンパンジーは枝を使って木から蟻をすくう。イルカは貝殻を使って魚を採る。カラスはナッツを道路に落とし、その上を通過する車を利用して殻を割って食べる。著者の考えでは、それらの道具使用は本当の発明とは呼べない。他の動物が一見道具を発明しているように見えても、それは単純な連合学習で説明でき、if-and-then規則を必要としていない。別の表現で言えば、彼らは「因果性(causality)」を理解していない。因果性を理解できることが他の動物とヒトを決定的に分ける性質、すなわちシステム化機構の産物である。…
Matzel LD, FP Held and RR Miller 1988 "Information and expression of simultaenous and backwards associations: implications for contiguity theory" Learning Motivation 19:317-344
Colwill RM and RA Rescorla 1985 "Postconditioning devaluation of a reinforcer affects instrumental responding" Journal of Experimental Psychology: Animal Behavior Processes 11:120-32
第16章 目標状態表象を分離する
オシツオサレツ表象が記述面と指令面に分離する利点
難しい
扉から出ようとする猫
扉を開くが、扉はバネで閉まろうとし、猫が出ようとすると、しっぽが挟まって出られない
そのため猫は走るが、走ることでしっぽを下げ、身体が流線型になるため、しっぽが後ろの方になり、網戸が挟まってしまう
猫はそのことを予想するため、更に速く走ろうとする
「しっぽを持ち上げて、歩く」とすれば、網戸から出ることに成功するはずだった
「しっぽを下げる」ということで、「しっぽが後ろの方になり、扉に挟まれる」ことは予想できて、それを「もっと走る」という形で解決しようとするためには使えるんだけど、しっぽの運動によって解決するためには使えない?
挟まっちゃう→走れ!(スピードを上げろ)、そして身体を流線型にしろ
これは、自分が走ると本能的にしっぽが下がってしまうことまでは分かっている (自分の行動の結果の予想)
それでもっと早く走ろうとする
歩けば問題ないという想定ではないよね
これは目標状態表象があるとどのように解決されるのか
しっぽをあげる? 歩く? 両方?
「しっぽを上げて、かつ走る」というのは本能的に不可能ということで排除されていると考えて良い?
「目薬をさすとき、あらかじめ自分が目を閉じてしまうことを予想して、目を指でガッと開けておく」みたいな?
目薬を入れるとき目を閉じてしまうのは、保護的まばたき反射の目的が明示的に表象されていないから
目を開けておくという意識的な目的と同レベルにないので、目を閉じるという目的を目を開けるという目的で打ち消すことができない
ガチョウが卵を戻すとき、途中で卵を落としても動作を継続するのは目的が明示的に表象されていないから
目標が達成されている状態を表象する
目標が達成されていないとき、達成されていないということを行動に反映させるためには、記述的表象 (予想、観測) と同じ言語で表現されている必要がある
遠心性
フィードバック制御はアフォーダンス知覚の一種ということだった気がするけど、フィードバック制御ではすでに現状で目的を達成しているかどうかは表象されていたのではなかったっけ
フィードバック制御自体は純粋なオシツオサレツ的なバージョンもあるのか
客観的表象
// 自由エネルギー原理によると、欲求は予測として解釈され、行為は予測と現実の差異を減らすように行われるとみなされるらしい
// これは目標状態表象 ?
現在の記述、未来の予想、投射された目的状態が、全て同じ形式で比較可能な形でエンコードされると措定する
もし投射された目的状態に到達しないと分かっているとき、中断を可能にする
イデオモーター理論
アフォーダンスの枠組みに目標状態表象を位置づけると、自分の行動がどの結果になるかを表象するのではなく、どのアフォーダンスに行くと、(それが誘発する行動により) どの結果に導かれるかを表象する
// だから行為は、その身体動作ではなく結果によって表される? (電気をつける、人を殺す、ドアを開ける)
// これは単に、状況→行動→結果という繰り返しを行って、それを自分で観測するだけでできる?
// それによってできるのはあくまで、行動の結果の予想でしかないか
意図は、未来に自分がその結果をもたらすという確信でもあり、同時に行動をもたらす目的でもある
自己成就的予言?
アフォーダンスに支配される人
前者はアフォーダンスに支配されていてもなんとも思わないが、後者は自分自身の不適切な行動について悪く思う
意図は前頭葉で表象される
(2)は、さらに興味深い。というのは、ある種の動物は、たんに空間的な表象をもつだけではなく、その空間に重ねて、線形時間ではないが、時間順序の系列を表象できるからである。これは、縄張りの環境に分布している通常の餌ではなく、通常とは異なった状況に設置された餌を、動物が試行錯誤によって「それを手に入れる経路」を発見することによって証示される。たとえば、あるリスがミリカン家の「鳥の餌」を手に入れた経過はこうである(p281f)。テラスの屋根から鎖で空中に吊るされた鳥用の餌箱は、地面や木の枝と不連続だから、リスは通常のアフォーダンス知覚によっては、この鳥の餌を手に入れることはできない。しかしリスは数日にわたって、餌箱の下、テラスの一方の側、テラスの他方の側などと空間的な位置を変えながら、そこから餌箱を観察し続けた。そして「ついにリスは、一方の側から手すりに沿って一走りして、家のドアを反射板にして餌箱に飛びつき、かろうじて前足を餌箱の端に引っ掛けて、ずり上っていった」(281)。
数日間も探索を重ねたリスも立派だが、その間ずっと観察し続けた"生物学者"ミリカンも凄い。このリスの事例で重要なのは、単独のアフォーダンスだけでは目標に到達できずに、複数の過程を繋ぎ合わせ、複数のアフォーダンスの結合として、最終目的に達していることである。そして、そのためには、「目標が達成された表象」を持たなければならないことである。「食べ物が見える場所にあるという事態」→「食べ物が手の届く場所にあるという事態」→「食べ物が自分の手の中にあるという事態」という三つの事態の「移行」を理解するには、最終段階の表象がなければならない。つまり、リスは未来の事態を事実表象として持っているから、複数のアフォーダンスを結合して「目標までの経路」を認知することができるのだ。
第17章 目標状態表象を生成する
未来を心に描く、シミュレーション
ゴールからの逆算と、現在状態から順番に進める想像を使って可能な道筋を生成、探索
サブゴールの列
gaolというのは誤字?
鎖を引くと甘い水を与えられてオペランド条件づけ(?)されたが、
甘い水が吐き気をもたらすということが別の文脈で分かると鎖を引かなくなるネズミは「鎖を引くと甘い水が出てくる」という因果関係を認知したのであり、鎖を引く行動自体を強化されているわけではない
リス、チンパンジー、ネズミは純粋なオシツオサレツ動物と異なる
アフォーダンス知覚を単に行為の可能性としてとらえ、なんでも目の前のアフォーダンスに導かれて行動しない
その意味でのアフォーダンスは今までの意味でのアフォーダンスと違うよね。
強化の原因もしくは、Bアフォーダンスがある状態を目的とする (再: 痒いと掻きむしるというアフォーダンスはB-アフォーダンスではないのか)
快楽主義?
//「何を目的とするか」はどう選ばれているのか
// (人間は子孫を残すことそれ自体よりも、性的快楽の方を目的にしやすい)
箱を重ねてバナナを取る猿は、2つの系列の組み合わせを行っている点がすごい
動作の系列ではなく、サブゴールの系列
第18章 動物の思考の限界
ポパー的生物
動物は過去の歴史的、単線的な表現を行わない
(過去の出来事自体を記憶するのは、生存に役立たない。)
動物が表象する時間は、時間的随伴関係や因果関係など、生存に役に立つものだけ。
動物において物体との距離を正しく知覚しているということは、どうやってそこへ手を伸ばすか、どうやってそこへ行くか、等などを知っているという以上のことではない
→真偽を確かめる基準は、それに基づいて行う行為が成功するかという以上のものではない
第19章 人間の思考をめぐる推測
だいぶ思弁的な感じがする
ここについては
Millikan, R. G. (1984). Language, thought, and other biological categories: New foundations for realism. London: The MIT Press.
Ruth Garrett Millikan (2000) On Clear and Confused Ideas: An Essay About Substance Concepts.
に、より詳しく展開されているらしい?
主語-述語構造
述語に否定形
内的な不整合性
→複数のソースの整合性を比較するという形で、実践的な正しさ (表象のアフォーダンスに導かれた行動が成功するか否か) を超えた正しさの基準が導入される
// なんかPenelope Maddyが、個体-属性の存在論は、現実がばらばらの個体からなっているという偶然的事実に依存しているみたいなこと言ってなかったっけ
複数の手段で検証した結果が整合することによって正しさを確かめる
→整合するためには不整合することもできなければならない
さっきの未来を心に描いたときの表象どうしは不整合を示すことができたのでは
不整合が明示的に表現できることが必要?
述語の否定形は非ハゲ、非高い など
xに述語Pの述語否定 (非赤) が当てはまるというのは、xにPのcontrary (青、緑、黄色) が当てはまるということ
内部否定、アリストテレスのcontraries, enantia
述語否定、メタ言語否定
Xの否定を表象することは、Xを表象しないこととは違う
再認
言語を通した知覚と感覚知覚の違い
時間の一次元的な表現 (歴史) は言語によって可能になる
複数の人が過去の同じ出来事について語ることを通じて